NICU日記⑦

前回のお話右矢印NICUから最後の電話が鳴る

 

 

『生まれて来てくれて本当にありがとう。

〇〇はどうしたい?

〇〇の思うようにしたらいいよ。

お母さんは、大丈夫だから。』

 

亡くなるその日、私から出た言葉でした。

 

 

 もしかしたら、

 

 娘は私のその言葉を、

待っていたのかも知れません。

 

消えかかる命のローソクを繋ぎながら…

 私の準備が整うまで。

 

 

 

なぜか春の桜の咲くころには、

家に連れて帰ると信じていました。

 

 『サクラが咲いたらお家に帰ろうね』

 

 言い続けた言葉通り、

本当に連れて帰ることができました。

 

 翌日、近親者だけでお別れ会をしました。

 

NICUは両親だけが入室できる規則のため、祖父母にとって初めての対面。

しばらく、小さな孫の傍から離れず下を向く父の姿が心に残っています。

 

今まで撮り貯めていた写真やビデオを見てもらって、ちっちゃい体でよく頑張ったと褒めてもらうことが、

親としてはうれしかった。

 

 私たちのもとで二晩を一緒に過ごし、

お空に帰っていきました。

 

最後のお別れの時に、

当時4歳の姪が棺の中に入れてくれた手紙。

 

『〇こちゃんへ 

 バイバイ』

 

幼い字で書かれた10文字の短い手紙でしたが、今までのどんな手紙よりも一番心に響いて、

その時の私の心境をそのまま言い表してくれた手紙でした。

 

 

 

 

 

最後のページ―NICU日記

 

昨日までの起こったこと、夢のように思います。

 

いつもNICUへ行っていた時間になると、

『今頃お化粧して、行ってたなぁ…』

と、ふと思い出します。

 

お父さんとお母さんは、前向きに明るくこの事を乗り越えていこうと思いますよ。

●こちゃん、見守っててね。

 


 

 

13年ぶりにNICU日記を読んでみて、

 

 亡くなってわずか3日で

 

早くも心の整理をし、次に進もうとしている自分の日記に、

少々びっくりしています。

 

娘が居なくなった虚無感やとても寂しい気持ちがいっぱいだったはずなのに

 どうしてかその気持ちに蓋をして、早く元気になろうとしていたように思います。

 

 

何のために?

 

 慰めや励ましの言葉で傷つきたくなかったのかなと思います。 

 

『かわいそう…』

 

娘をそう言われるのが嫌だった。

 

この哀しみには、誰も寄り添えないと思っていたから。

もう乗り越えた事にしていたのでしょうか…。

 

 

でもホントは、

 

 

今の不安で孤独な気持ちや

やっと来てくれた赤ちゃんのことを

心が納得するまでもっともっと話したかった…

 

同じ想いをした人と一緒に。 

 

大切な人を失った喪失の痛みは、

4年半ぐらい続くとも言われます。

色々な想いが波のように揺らぐ毎日。

 

私にもやってきました。

 

 
最近では、グリーフケアの研究や学会が設立が行われています。
SNSで想いを打ち明ける人が増え、
天使ママの呼び名も知られるようになりました。
 
それでもまだまだ
 

病院も社会全体も生きられなかった命の事は、タブーで閉ざして隠す扱いをする慣習は今も残っています。

 諦めながら受け入れて、一人でやり過ごし、なんとか生きてきた多くの天使ママ達ばかりだと思います。

 

 

当事者同士がわかち合うのは、

 

 

その悲しみに留まりたいからではなく

 

 

自分のお腹なかで確かにあった命を、

ママ自身が受け止めいく時間であるように思います。

自分の人生を丸ごと引っくるめて、

良しと認めること。

 

それが心を置き去りにせずに、

次の一歩につながっていく事と信じています。