NICU日記⑥

前回のお話右矢印親子の時間

 
娘のNICU日記は、
13年前のちょうど今ごろ書いていました。
春めいていく風や匂い、サクラの花の膨らみを感じるだけで、当時にシンクロしていきます。
 
 
肝臓の問題は、ますます深刻になっていきました。 
 
やっと、
 
赤ちゃんらしいピンク色になりかけたのに、黄疸で今度は肌が黄色い。
眉間にしわを寄せて、はぁはぁしんどそうな息をする。
せっかく胃に入れた母乳も、気分が悪いのか…吐いてしまう。
 
このあたりから写真を撮るのを止めてしまったようで、ほとんど写真がありません。
 
 週1回のドクターとの面談で、
 
『やはり生まれた時の状況が重体で、これぐらい輸血したお子さんもあまりいない。
その影響が色々出ていますが頑張っていきましょう』
 
と言われた。
 
 
また来た、山が。
 
 小さい山は、今まで何度もあったけれど。
 ほとんど動かない肝臓に、ミルクを与えるのは大きな負担になるので、
また絶食になる。
 
ようやく口から飲むことを覚えて、
食の欲が芽生えたのに。 
生まれてしばらく泣き声を出すことすらできなかったけれど、今はミルクを欲しがって声を上げて泣いている。
そっと私の小指を口元へ持っていくと、吸ってその指を離さない…
 
 胸水が溜まってそれを抜き、
 呼吸が辛そうなのでまた人工呼吸器になり、
 いろんな数値が異常を示していく…
 
 それぞれの臓器が繋がりあって出来ている、1つの身体。
 
つくづく、
 
身体に丁度よいだけの治療をすることは、難しいと思い知らされました。
 
 その時、私の心の内は、
 
もう一度危機を越えるのは、出来ないかもしれない。
もう命を終わらせる準備に入っていると心の奥で感じていました。
 
 娘の周りは機械だらけになり、
広いNICUの中でそこだけ異様に映っていて、誰の目にも
『危篤な赤ちゃん』
と分かるのがとても辛かった…
変わっていく娘の事を、ドクター・ナースの方以外には見られたくありませんでした。
 
たまらなく不安でいっぱいなのに、
NICU専任のカウンセラーの方を避けていました。
 
周りがどんどん退院していくのも、
NICUに取り残されいくようで怖かった…
純粋に娘のことだけを考えることが、だんだん出来なくなっていたように思います。
 
それでも、
 
絶対諦めたくなかったし、
娘を失いたくなかった。
 
 
治ってお家に帰ろうね。
 
毎日、頑張れコールばかり…送っていました。
 
 
でも、
 
最期の面会では、なぜかいつもと違うことを娘に話していました。
 
娘の顔を見ていると、
 
よくここまで
奇跡的な回復をして
頑張って生きてくれた、と思った。
私に親子の時間を作ってくれ、
子どもがこんなにも愛おしいと教えてもらい、
母親にならしてもらった。
 
『生まれて来てくれて本当にありがとう。
〇〇はどうしたい?
〇〇の思うようにしたらいいよ。
お母さんは、大丈夫だから。』
 
 そう伝えていました。
 
 
その日の晩、
NICUからの最後の電話があって、
 対応する主人の様子から、娘の急変を告げるものとすぐに分かりました。
 
これが娘の願いだった。
私の準備が整うまで、待っててくれたよう…
もしかしたら、
生まれたばかり赤ちゃんは、
人の心の中まで読めるチカラ
が備わっているのかなと感じます。
 
NICU日記   生後 86 日
朝イチで御坂神社に行く。
娘に生きるパワーをくださいとお願いして、御守を頂いた。
それから病院へ。
いつものように17時まで側にいた。
今日は何故か…娘に手を当てながら『治れの光線』ではなく、娘が癒されますように力をくださいとお願いしていた。
 
 19:30 夕食後NICUから電話。急変したと連絡。
私は娘の服とおくるみを持って行く。
20:30 NICU到着。
ほとんど心拍ない。
20:44 抱っこし合って、息引取る。
管を抜き、お風呂に入れる。服を着せてやる。
 
◯◯先生の目が真っ赤だった。
 
やっと家に帰れたね。
 
 
 
 続きます右矢印