13年前にお空に帰った娘の当時の写真や日記、やり取りしたお手紙はパラパラと見るぐらい…
心臓がギュッと痛くなりそうになったら、閉じてしまう。
長い間、娘の思い出箱をじっくり見ることはできなかったけれど、
13年経ってそれが出来るようになっていました。
『時間がしてくれることって、大きいなぁ…』
と思います。
哀しみが消えてしまった訳ではく
確かにあるのだけれど
形がまぁるくなっている感じがします。
親の私たちもこれから更に年を重ねていきますので
娘が生きた3ヶ月、
自分はどんな気持ちで、何を考えていたか記しておこうと思います。
NICUでの写真や、治療のことが出てきます。
前回からの続きです。(前回のお話はこちら)
大嵐の海を行く、
一寸法師ちゃんの夢で目覚めました。
『不思議な夢?みた…』
緊急帝王切開のあと午後にはベッドから離れられるようになったので、ゆっくり歩く練習をしました。
真っすぐ立つと、お腹の傷が突っ張って立てない。
まるで生まれたての小鹿のようになって
同じフロアのNICUまで、とぼとぼと歩いていきました。
初めて入るNICU。
やっと会えるウキウキな気持ちで
『どんな顔かな?どっち似かな?』
とか、思いながら
楽感的と言いますか…この時までは、
娘は、
今の治療を受けて体重が増えたら退院出来ると思っていました。
いっぱい保育器が並んだ部屋の
一番奥に娘の保育器がありました。
当時の私の日記には、
体の血液を全部変えてしまう治療を受けている。
交換輸血のための管が左右の胸に 。
尿の管、おへそにも管が付いていて、人工呼吸器がしんどそう。
足がパンパンに浮腫んでいるけれど、顔の色もよく、ほっと安心した。
書いていました。
胎児水腫の治療の説明は受けていたけれど
たくさんの治療同意書にも署名したけれど
予想はしていたとはいえ
今まで生まれたばかりの赤ちゃんが、
あれほど体中に管が繋がっている、
あれほどしんどそうな顔を、見たことがなかったので、
一瞬、ドキッとしました。
けれど、その数秒後には、
無条件に愛おしい
という感情が、私の中から溢れだしました。
保育器の小さな窓から手を入れて
細いけれど骨太な私によく似た手を
そっと握ってやりました。
主治医の先生が、病状の説明の終わりに
『それからまだ、おしっこが出ていないのです』
娘と対面できた喜びに浸っていた私は、
この事をあまり深刻に受け取っていませんでした。
ちょうど13年前の今日、NICUに娘を預けて、私一人が退院しました。
続きます。